そこにしかない生態系


   
烏川源流のカモシカ    2026.6.7.
 

 烏川の最初の一滴は長野県軽井沢町と群馬県高崎市にまたがる鼻曲山の中腹にある「烏口」と呼ばれる鳥のくちばし状の岩から始まるのだという。
 鼻曲山から北へ続く稜線は氷妻山、二度上峠、浅間隠山、笹塒山へと続いていく。また、鼻曲山から東へ続く稜線は十六曲峠、剣の峰、角落山、雨坊主へと続く。この稜線が分水嶺となり、烏口から始まる最初の一滴にいくつもの支流の沢の水が合わさり、烏川となって、下流の利根川へと続いていく。その利根川へ合流するまでの距離は61.8km。だがダムが作られようとしているのは、「烏口」からわずか約6kmほど流れ下ったあたりになるようだ。
 この烏川源流域の山々を作っている岩石は火山活動でできたものである。安山岩、流紋岩、凝灰角礫岩、凝灰岩などといった火山活動と密接に関係した岩石がこの山域には複雑に分布している。かつて、ここに火山があったことは疑いようがない。
 とはいえ、この地域に隣接するようにある活火山の浅間山や榛名山などよりは桁違いに古く、浅間山が13万年前、榛名山が50万年前ほど前に活動を始めたらしいというのに対して、この山域はおよそ700万年前~250万年前の活動だというのである。角落山などはもっと古くておよそ1600万~1100万年前という数字もある。地質的にみればこの地域は妙義山から続く、同じような時代の同じような岩石であるといえそうだ。
 まだ地球上に現生人類(ホモ・サピエンス)が存在していなかったころ、ここには大きな火山があって、火山活動が終わるとともに、降った雨が岩石を削り、あるいは岩の割れ目に入り込んだ水の作用で岩石が壊され、少しずつ山が削られ、沢ができ、谷ができ、谷は次第に深くなり、削り取られた土砂は下流へと流され、関東平野へと流れていったものもあるかもしれない。流域の倉渕町などにある平坦な場所の土砂もこうして大昔の火山を烏川が削りとり、そこに運ばれ作られた地形であると想像するのはそう難しいことではない。かくして、大昔にあったはずの火山らしい形はすっかり消え、浸食によってできた妙義山にも似た急峻な山々が現在の烏川源流の分水嶺を形作っている。
 長い時間をかけて作られてきたのは地形だけではない。そこに住む動物、植物、菌類etc、ここを生活の場としているすべての生物が、時間とともにその構成メンバーを変えながら、少しずつ少しずつ変化を続けてきた。絶滅していったものたちもいただろうし、他からやってきたものたちもいたことだろう。生態系は地形や気象やその他の様々な要因で、常に変化しながらそこにあるものだ。だから長い時間かけて作られてきた生態系はその場所にしかないオリジナルなものといって過言ではない。
 烏川源流に今ある生態系は、そこにしかないものなのだ。
 「植物地理学」というあまり聞きなれない研究分野がある。いろいろなところに分布している植物がどんな経路でそこにたどり着いたか、などということを考えたりするのだが、日本列島がどんなふうにして作られてきたか、ということとリンクする壮大な話でもある。
 烏川源流域で見られる植物とすぐ隣の榛名山で見られる植物の顔ぶれはずいぶんと違う。
 日本列島を二つに切る糸魚川-静岡構造線という大断層の東側はフォッサマグナと呼ばれる地域になるが、この地域はかつて海であったところが火山活動などで陸化した場所で、そこに入り込んできた新しい植物たちを「フォッサマグナ要素」とよんでいる。榛名山の植物の多くはこのフォッサマグナ要素の植物なのだ。ところが、烏川源流の植物の中には、「そはやき要素」と呼ばれる植物が目立つのである。
 マルバノキ、ギンバイソウ、コハクウンボク、レンゲショウマ、ヒメウワバミソウ、ミツバツツジ、フタバアオイ、ヒメウツギ、などといった植物である。これは、九州、四国、紀伊半島を通って関東山地まで続く中央構造線という大断層の南側の古い地層のある場所に分布の中心を持つ植物たちだ。
 そこにできあがっている植生は、気候・地形などに加えて、それまでのその土地の歴史にも関係してくるということなのだろう。
 植物が違えば、それを食料としている昆虫たちなどの顔ぶれも違ってくる。昆虫の多くはとても偏食で、この植物しか食わない(食えない)というものも珍しくはない。この植物があるからこの昆虫が生きていられる、という密接な関係が成り立っているのだ。こうして、植物と動物と菌類と… いろいろな生物が複雑に関係しあって、そこにしかない生態系が地球上のそれぞれのところにできあがっている。
 だが、ひとたびそこにヒトというものがかかわってくると、あっという間にそこには劇的な変化が生じてしまう。それは、工事によってそこが破壊されるだけでなく、外来種の侵入も引き起こし、生態系はそれまでのものとは全く違った形になり、種の多様性という点においてはとても貧弱なものに変わってしまうことだろう。
 ヒトは自らの勢力範囲を拡大し続けている。それは種としての本能なのかもしれないが、ヒト以外の生物の居場所を奪うことに他ならない。
 源流からわずか6kmしか流れ下っていないような場所にダムを作った結果、失うものは長い時間かけてできあがったここにしかない生態系、そして居場所を奪われたツキノワグマやニホンザルたちは人里へ降りていくかもしれない。今、各地で問題となっているアーバンベアの問題も心配される。
 一度ダムによって壊された生態系は、間違いに気づいて後からダムを壊してももう戻ってくることはない。